親と子は完全に他人である

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ひとりで作り、ひとりで悩み、ひとりで動かし、ひとりで失敗する、を繰り返し、それでも生き抜く起業好き40代。

さまざまな虐待

日本のメディアで、痛ましい幼児虐待により女の子が死亡したというニュースを見ました。

これまで書いてきている「道徳の蜘蛛の糸」問題に通じるので、取り上げてみます。

虐待は何も、親が子にするものとは限りませんね。

子が親にすることもあります。

さらに、上司が部下に、先輩が後輩に、チームの監督が選手に、先生が生徒にすることもあります。

これは「パワハラ」といわれるようですが、虐待と本質は変わりません。

夫婦間、家族間で行われれば「ドメスティック・バイオレンス」

友達が友達にそれを行えば「いじめ」

もしくは「マウンティング」ですか。

戦時下なら捕虜に、障害者施設なら障害者に対するひどい扱い。

これもすべて同じこと、虐待です。

やや主題がそれますが、同じことを違う言い方をすることで焦点をずらす、ぼやかす使われ方を日本語では頻繁に見かけます。

「いじめ」も「しつけ」も「パワハラ」も「セクハラ」も、「DV」も、すべて虐待、相手の尊厳を傷つける暴力行為です。

え?「しつけ」も?

と思われたかもしれませんが、「しつけ」も往々にして虐待であったりします。

 

さて、なぜ、虐待がおこるのでしょうか。

昨今はSNSなどの普及で若干事情が変わりつつあるようですが、基本的に虐待は、近しい間柄の人間同士に生じます。

もしくは「同じコミュニティに属しているもの同士」に生じます。

まったく知らない誰かにいきなり虐待する人は、まぁあまりいません。

本当に何十年も「虐待する側」にいるのにそれに自分で気づいていない人は、それが当たり前の「生き方」になっていて、知らない誰かにも同じことする場合もありますが、今回は除外。

知人、友人、上司部下、家族、夫婦、親子といった名前が付けられる関係性ができると、とたんに虐待の可能性が生まれてしまいます。

ここで、大きく2つのパターンにわけることができます。

「知人、友人、上司部下」など「同じコミュニティに属する同士」の虐待と

「家族」「夫婦」「親子」といった「血縁関係を基本としたまとまり」における虐待です。

どちらも虐待ですが、「同じコミュニティ」のほうは、そのコミュニティを出れば良い、つまり逃げるという最終手段が一応残っています。

実際に逃げられるかどうか、コミュニティを出ることができるか現実的に可能どうかは別として、卒業、退職、転校、引っ越しなど、その現場から逃れることは物理的には可能です。

もちろん、そう簡単に逃れることはできないからこそ、その虐待に大きな、さらなる苦しみが伴います。

一方、「血縁関係」のほうは、生物学的に繋がりがあり、なおかつ「家族」という名のもと、経済的にも生活の上でもより緊密につながっている「逃れることが物理的にも精神的にもとてもむずかしいコミュニティ」であると言えます。

5歳の女の子が、自力でその特殊なコミュニティから逃れることは不可能です。

自力で生活できる大人であっても、この「家族というコミュニティ」から精神的に逃れられない人は大勢います。

 

家族愛はいらない

家族というのはとても厄介です。

親が子を思う心、子が親を思う心は、とても美しいものとされます。

家族愛、兄弟愛、夫婦愛、なんて言葉も日本語にはありますし、至上のものとしての扱いです。

無償の愛、なんてね。

ちなみに、フランス語にはありません。愛は、愛、アムール、以上。

なぜ、厄介なのか?

いつもの、アレです、道徳です。

 

親は子を愛し、大切に育むべきである

子は親を同様に愛し、敬い、その恩を返すべきである(親孝行)

夫婦はお互いを、またその家族を大切にするべきである

いつも、道徳の糸は見えない、本当に骨の芯まで染み渡っていてわからないものと書いていますが

家族愛はその最たるものといえます。

これほど、当然と思われている蜘蛛の糸はありません。

だからこそ、本当に厄介です。

家族愛は、いりません。

私には子供がいますが、子供を「親として」愛してはいません。

また、母親が存命ですが、やはり「子として」彼女を愛してはいません。

 

いったん、他人になる意味

血がつながっていようが、育ててもらったという経緯があろうが、親も子も、他人です。

「自分」とは物理的に別の体を持つ人間だから、当然「他の人間」、つまり「他人」という意味ではありません。

「自分」とは、全く別の考え方を持ち、全く別の人生を歩む人、という意味で「他人」です。

そりゃあそうだろう、と考える方もいるかもしれません。

しかし、「家族」は、お互いの人生を、生き方を、「良かれとおもって」干渉しあいます。

この「良かれとおもって」は、あくまでもその人固有の考えです。

そんな独特な考えを、家族愛という名のもとに、簡単に押し付けてしまえるのが、「家族」という特殊なコミュニティです。

別の「同じコミュニティ(学校、会社、地域など)」でも考えの押し付けのなれのはてが虐待といえると思います。

ただ「愛という名のもとに」行われないだけ、まだ「わかりやすい汚さ、醜さ」があります。

見るからに醜い分だけ、まし、といってもいいでしょう。

上司が部下に考えを押し付けて強要すればパワハラ!といって簡単に罵ることができる。

でも、母親が子供に考えを押し付けてもそれは、「必要なしつけ」とされてしまう。

もしくは、「こういう風に生きたほうが良いよ、それがあなたの幸せよ」なんていい方ならば、

それは下手をすると「母の愛」という絶対的なものになってしまいます。

こんなに恐ろしいものは、ありません。

 

家族を、「別の人生を生きる全くの他人」と思うことで、「家族愛縛り」から逃れることができます。

相手や周りはともかく、自分の内面において。

家族愛縛りが解かれると、とても楽になります。

家族だから愛するべきという義務感からの解放です。

いったん、他人になるのです。

 

他人として

全くの他人を何ものにも代え難く愛することは、できます。

実際おそらく、本当の愛って全くの他人との間にこそ生まれえるものだと思います。

だって、無条件ですから。

血の繋がりとか、ましてや紙上のつながりだとか、

これまで一緒にいたとか、助け合ってきたとか、そういう条件一切なし!

家族を、他人として見つめてみてください。

全く別の考え方、感じ方をする、全く別の人生を歩む、全くの他人です。

だから、愛せないなら、無理して愛さなくて良い、

というより、「無理して愛する」それ自体が矛盾ですね。

それ自体が、「家族愛」といった枠ありきの矛盾した言葉です。

私はあくまでも他人として自分の子を見ています。

何十億といる子供の中では、私が最も愛しいと思う子供です。

他人ですので、いつかその愛が終わるときが来るかもしれません。

すべての愛同様に。

子供にとっても、私は他人ですので、愛されていないかもしれませんし、

今愛されていたとしても、いつか終わる時もあるでしょう。

でも他人なので、その考え方、生き方は本人の決めるところです。

私の考えを他の人に押し付けたりはしないように、彼らにもしません。

私は愛しているので、彼らなりの幸せを見つけてほしいと密かに願うのみです。

 

……綺麗事に聞こえるでしょうか。

……冷たく感じるでしょうか。

「家族愛」とその周辺の問題を抱えたことがある人には、

少しだけ救いになるといいな、と思って書きました。

家族だから愛さなくてはいけないということは、ない。

逃げるのが困難な家族というコミュニティではありますが、

そう考えることで、精神的に逃れることができる場合もある、と思うのです。

生まれてきてそこで育った子どもが、親を他人と思って引いてみる、

なんて芸当がすぐにできるものでは、もちろんありません。

でも、大人になったこちら側が、そうした信念を持つのは、

虐待の連鎖を断つ可能性、という点で意味があるかもしれません。