今回帰国して、色々な人と話して気づいたのが、「シンプルに言うとこういうことでしょ?」と言いたがる、といいますか。
まとめが好きな人が多いな、と。
物事を分けて、分子さらに原子にしていく「分ける」方法と
それらの融合、統合を考えて全体を見る方法がありますが、
このサクッとまとめは、いくつかの分子をまとめた、という感じでしょうか。
全体を統合してみているというほどではなく、また現象そのものをそのまま見ようという態度でもない。
社会で、さらには会社で生きていくには、いちいち全体を統合して、融合を考える。
さらには原子と、全体との関係性を見つめるというのは、大変な作業でしょうから、あるビジネス等の場面において、だいたい今出揃っている分子でくくる、というのは、使われる方法なんでしょう。なんだか賢く見える?し。
まぁ、ビジネスの世界というのは「分ける」に合った世界だと思いますので、それほど違和感なくこの作業も有用なのかもしれません。
しかし、人間とか、思考、感情がそこに入ってくると、単純に分けて整頓するというのでは、見落としがあるというか、大きなズレがあるな、と感じました。
誰かと別の誰かの感情とか
その場で起こっている問題
その明確な解決法がないような場合
感情は変化するし、本人すらも無自覚であることが多いので、最小単位に分けることはできないものだと思います。
それをその場でなんとか上手く手打ちするために、ざっと「概要をまとめる」、いえ、「まとめようとする」んだな、と。
そりゃ、未解決の問題、どう扱ったらよいかわからない案件が宙に浮いているというのは気持ちの良いものではないでしょう。
原子を原子のまま、そのまま扱うようなもの。
どうにも扱いにくいので、むりやり、とりあえずまとめたい(欲望)。チェックを入れて、「済」にしたい。
注意すべきは、分けられない空気のような人間の感情、思いを無理やり箱に詰めている、つまり大分こぼれ落ちている部分があるということ。
そして
その作業を、ただ、まとめたいという欲望から行っていないか、ということです。
つまり「済」にしたいだけじゃないか?と問うということです。
これは、自分の感情や気持ちを整理するときにも使われているように感じますが、自分で自分の「本当はある感情」を整理してなかったことにしてしまっていますから、後から問題がでてきても、さもありなん、です。
しかし分けれない人がいます。
一見、有能なタイプには見えないのかもしれません。
分ける際して感じるわずかな違和感がどうしても捨てきれない、そこに敏感であるということです。
分けれる人に、じゃあ、その違和感は何なの?と言われても上手く説明はできない。
理由がない、説明できないのでは、意味がないでしょ?ではこうこうしてまとめましょ、それが一番わかりやすいでしょ、という感じです。
例えば中学が終わった時に、どうして高校に行くのかわからない。
みんな行くから とか、わからないからとりあえずは無難な選択肢 というのでもどうもこぼれ落ちる何かがある。
または、20代後半になったら結婚を考える、というのがわからない。
一度は経験するべきとか、子供をもって家庭をもつのは素晴らしいとか、老後の心配とか、ともあれ色々な「ざっくり解決に至るための世間のまとめ」があるけれど、それでもやっぱり何かがこぼれ落ちる気がする。
つまり、「そういうものなんだよ、こぼれ落ちるものを諦めて手放すことが重要なんだよ」という考え方を受け付けられないということです。
非常に生きにくい、特に若い内は、なにをめんどうな、邪魔くさい人だ、なんて思わますし、下手をすると完全変人になりかねません。
(経験談)
しかし分けれない、つまり未解決のまま、それを抱えて生きていくことこそ、真に自分の思考を生きることに繋がるのだと思います。
ずっと、わからない。
ずっと、考え続ける。
わからないものとして、いつもそこにあって、何かの度に、「あ、これが答えかな?」「いや、やっぱり違うな」とそこに手を置いて考えることでしか、自分の考えを深めるということは出来ないような気がします。