身を切って学ぶ時

ABOUTこの記事をかいた人

ひとりで作り、ひとりで悩み、ひとりで動かし、ひとりで失敗する、を繰り返し、それでも生き抜く起業好き40代。

成長を望み続ける

何かを知りたい
何かを感じたい
何かを感じ取りたい

皆様どうも、
真面目人間
がらべるです。

あまり周りから
真面目だと言われたことはありませんが
かなり真面目に生きています。

それは、自分の成長を
いつも学びたいと、
願い続けること。

そこには自信があります。

 

学びって?

ここで言う学びは、
いわゆる学校や書籍等で学ぶ
「教育的学習」を指しません。

より多くの知識やノウハウの習得といった意味でも
もちろんありません。

それらはどちらかというと
自身の成長のため、というより
生きていくためのマニュアル獲得
という意味合いが強いと感じます。

食べていくために必要な
ノウハウ獲得と
自分自身の成長を願う意味での
学びとはかなり異質なものです。

言葉が近いせいで、乱用され
義務教育も、高等教育でさえ
本当はノウハウ獲得になってきているのに
学びだと勘違いさせられます。

危ない、あぶない。

 

書籍やメディアから得られる知識が
自身の成長のためのツール
もしくはきっかけにはなりえる。

でもじゃあ多読が良いか、
知識の詰め込みが良いのか、
それが学ぶことなのか、ということですね。

知識獲得それ自体は経験の1つの要素です。

食べ過ぎるとおなかが痛くなる
そう経験して食べすぎない知恵を身につけるのと同じ。

知識はたとえそれが大学で受け取ったものでも、
自宅トイレで受け取ったものでも
1つのきっかけです。

 

本を読むべきなのか

私自身は本を読むことは
楽しく、面白いことだと
感じますし、単純に好きです。

まぁ、前も書いたように
キンドルを壊したり
寝落ちして巨大なコブを
額につくってからは
睡眠を優先させるように
なってはきましたが。

最近は年のせいか視力も……

ともあれ、
たくさん読むことそれ自体に
意義があるとは思いません。

しかし中には、ごまかしなくこのことを自覚していて、どの箇所をスルーせざるを得なかったか、読んでいて痛みを伴ったのはどこか、日本語としては分かっても理解が及ばなかったのはどこか、等々を率直に表明される方もある。このようなことは、硬いプライドで身を守っている人にはおよそ逆立ちしてもできないことであって、かえってその人の度量の大きさが感じられる。人が内的な成熟を希求して手掛かりを模索しているような時に、このように率直で「開かれた」読み方がなされるのであろう。
ピックアップ-第2回-泉谷閑示氏

 

泉谷閑示氏の上記の文章が非常に的確で、
本の読み方として、ひいては
さまざまなきっかけとなる体験を
経験するにあたって
常に意識しておきたい部分だと感じます。

どのエッセンスを
自身を開いて掴み取るか

それがなければ何千冊本を読んでも
時間の無駄になりえる。

安易な読書偏重は、「考えること」の堕落にも
つながりかねないという警告です。

 

刺激のシャワー

これまた本に限りません。

海外で生活していますと
十数年経った今でも、
やはり驚く意見、行動
文化慣習を頻繁に見聞きします。

刺激のシャワーです。

しかしどれだけ刺激があっても
そこに対して自分が閉じていては
何もないのと同じこと
ただの雑音です。

閉じているということは
守りに入っているということ。

フ~ン、で終わるだけならば
そういう本の読み方ならば、です。

特に近年は治安の悪化もあって
自身のイデオロギーというものを
ブスブスとつつかれるような
刺激が増えています。

ブスブスとつつかれていると感じ、
自分にとって
より痛そうなものに面と向かい合う

何なら一度は全体をパックリと
飲み込んで
腹痛に耐えながらも
なんとか消化を試みる

身を開くとはそういうこと
経験とはそういうもの
ではないかと感じます。

別にイデオロギー的な対立の場面ではなくても
海外で生活しなくても、

周囲の言葉
周囲の態度や対応
起こった出来事、社会的事件

それら日常の些細な事においても
開いていられるか
開いて感じ取れるか

それさえ忘れなければ
高額な本やセミナーだって
必要ないのかもしれません。

刺激やマニュアルは
獲得できるかもしれませんが。

 

学びや成長に効率を求めると

一足飛びに楽になりたい
一気に知識を詰め込みたい
重要なことだけ要点だけ知りたい
時間を無駄にしたくない

それは自身の成長というより
見を閉じた逃げにも思えます。

身を開いて血を流す成長には
痛みがつきものですから
ラクに早く効率的に
とは真逆の方向性です。

 

日常生活、本、学校での学び
どこであれそのきっかけにおいて

「自分の見たいものをそこに見るのか」

それとも

「目を覆いたいものをちら見できるか」

効率的にはできない
でもだから
その学びは喜びになるのだと思えます。