道徳から与えられたマイナス

ABOUTこの記事をかいた人

ひとりで作り、ひとりで悩み、ひとりで動かし、ひとりで失敗する、を繰り返し、それでも生き抜く起業好き40代。

自己評価を高めたい

自己肯定感を持ちたい、そうすれば今より生きやすくなるだろう
と考えている人が多いようです。
数年前の私もやっぱりそうでした。
で、自分のよいところを改めて探したり、自分の欠点をそういうものとして認めたりする内省をしたりする、ものです。
ですが1点、謎がありました。
私は実は、堂々書くのもナンですが、比較的自分に自信があったし、自己肯定感も持っていて、何かを行うにおいてもどちらかと言うと行動的な人間だったのです。
十分な自己肯定感を持っているので、もちろん欠点はあるけれど、プラマイで計算したら自己評価はプラスになるだろうと思っていました。
これは今でもそう思っています。

でも、誰かと接したり、何かをしようとした時に、変なモヤモヤが自分を邪魔する時がある。
このモヤモヤが嫌だから、より欠点をそのまま自分の一部として愛するようにしていこう、というのが数年前までの私の考え方でした。

欠点や、「黒い」部分を認めて受け入れる重要さはもちろん今も感じています。
しかし、モヤモヤって、自分で「わからない何か」だから、正体が掴めないからモヤモヤなんですね。
なので、いくら内省して、上記のような作業をしても完全には消えない。
だって自分の死角にあるです、そのモヤモヤは。
このモヤモヤを死角に隠している霧のようなもの、この正体は何なのか。

道徳という洗脳

それは、「道徳」でした。
言い換えれば、常識、教育、しつけ、というものでしょうか。
「倫理」はここでは区別します。(また別の機会に)

人間は生まれたその時は、道徳も教育もしつけも施されていません。
そのまんまです。
ここに、様々な「であるべき」例えば「良いお姉ちゃん」とか「素敵な大人の女性」とか「良い母、良い父」「できる男」とか「懐の広い人間」とか、施す側によって様々なキャッチフレーズがつけられて、それらを施されます。
そうでないといけないと、そうなるべきであると、洗脳されるのです。
親によっては自分の独特の考えや感じ方をもとに、これらを施すので、本当に千差万別さまざまなものがあります。

先日テレビでX JAPANのYoshikiさんが、「人間は多かれ少なかれ洗脳されている」とおっしゃっていました。
過去のToshiさんの洗脳騒動を振り返っての発言でしたが、とても含蓄のある言葉ですね。
社会的動物である人間は、親や学校、会社、世間、世俗的習慣、宗教、とにかくすべてから「洗脳」されている。
その飛び道具が上記の「道徳」です。

なぜ飛び道具なのかというと、道徳は「普通」は、「洗脳」に対抗する手段、理論として使われるからです。
それ自体が最大の洗脳なのにも関わらず。

そしてこの施しは、あまりにも「当然のもの」として行われ、子供心に刻まれるので、それに大人になっても縛られていることになかなか気付ません。
ここまで読んで、「いや、自分にはそういうものはない、特に縛られていると思わない」と感じたらますます注意が必要です。
この霧(道徳、教育、常識、しつけ)は、本当に蜘蛛の糸のように、よく見ないとわからないくらいわかりづらく、しかし私達の人生いたるところに張り巡らされているのです。大前提となりすぎていて、見えないだけです。

親や家族を大切にする
利己的ではなく利他的に生きる
思いやりをもつ
ポジティブに考える
弱者を守り、助ける
夜は寝て朝起きる
笑顔でいる

当たり前だろう、と思いませんか?
それは、「当たり前」とどこかの時点で教えられ、施されてきたからです。

明らかに認知の仕方が歪んでいる場合、内省しているとある時点で自分で気付ます。
もしくは、明らかに歪んでいてそれが現在の生活に影響を及ぼす場合は、カウンセリング等受けて、そこで気付くことになりえます。

「普通」の歪みは気づかれない

でも、上記のような「誰にとっても当たり前だと思われているようなこと」は歪みとは思われません。
カウンセラーだって思っていません。だから気づかない。
むしろ、そのような縛りを受けていない人間が「歪んでいる」とされ攻撃される(とりわけ昨今の世の中)のですから、道徳は自分を守る最大の武器のような立ち位置にあるのです。

自分を正当化する武器。
かなり恐ろしい武器です。

まさかこの武器が、自分自身を邪魔しているなんてね。
では具体的に、どのように邪魔しているのでしょうか。
こう見るとわかりやすくなります。

親や家族を大切にするべきだ
利己的ではなく利他的に生きるべきだ
思いやりをもって人に接するべきだ
ポジティブに考えるほうが良い
弱者を守り、助けるべきだ
夜は寝て朝起きるのが普通だ
いつも笑顔の人は人から好かれる

だいたい、語尾が変わっただけです。
それだけなのに、見えない蜘蛛の糸のように何かが張り巡らされた感じがしませんか?
あらためて、語尾の変わっていない方と読み比べてみて、印象を感じなおしてみてください。

最強の蜘蛛の糸

これらは、日本で生きていれば「普通でしょ、常識でしょ」と、それが押し付けられていることすら自覚できないレベルの、強力な、しかしものすごく見えづらい蜘蛛の糸です。
上記はごく一部で、年代、性別、環境によっても大きく変わりますが、非常に様々な見えない糸で世の中溢れかえっています。
特に、日本は多いと感じます、大小問わずそういう糸が。

私は、道徳、教育、しつけ、常識といったものを否定するのではありません。
もう一度いいますが、人間は社会的動物ですから、どうしても上手く生きていくためのルールは必要になります。

逆に、ただのルールです。
ボードゲームで楽しく遊ぶために、守っておかなければならないもの。
人間として社会生活を送るために、必要とされるもの。
国、社会、時代によってルールはコロコロ変わりますし、「世間」みたいな正体のよくわからないルールもあったりします。
「会社」なんてまさに、そこにいる人、関わる人のみのルールだらけ。
それ以上でも以下でもない。
そんな不確かな、誰が何のために決めたのかも不確かな、そんなものは、自分の内面を規定するものではないのです。

しかし残念ながら、「ルール」に合わない、「ルール」で見ると適合していない
…ように感じて、「モヤモヤ」を自らの内に生成してしまう人が多いのです。
ただのルールのおかげで、勝手に自分にマイナスポイントをつけているのです。
だから、「ルール」の多い環境に居る人は、どうしてもマイナスポイントを内面に溜め込みやすくなります。
「親である」「結婚している」「会社勤めしている」「厳しい親に育てられた」「学歴や職歴が大きく響く環境にいる」
すべて、「ルール」規定がある場所だということをわかっておきましょう。
だから、そのモヤモヤは、あなたのせいではない、ということです。

さて、このスタンスで行くと、上に列記した「…べきだ」はどう変わるでしょうか。
シリーズでお送りします(笑)